読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

今日はこれを証明しようと思う。

高校生の頃から自己啓発、ハウツー系の本を読みあさるも行動を全くしないノウハウコレクターの私が自分を変えるために、本に書いてあることを実践し、どんな変化があるか証明していくブログ。まぁ色々書くけどね(笑)

数学を学ぶ意味が知りたくて大正時代の教育書を読んだら悲しくなったぜ

オピニオン 教育 数学


A「数学とは何だ。」

B「それは中学校時代に学校で一番いぢめられ、又入学試験でも一番苦しめられた学科のことさ。」

A「そんなに苦しんで習った学科なら、今でも忘れずにいるだろう。」

B「ナニ、皆忘れてしまった。今でも知っているのは、ただ方程式とかシムソンの定理とかいふ言葉だけさ。」

A「ソンナに忘れてしまっても、君は平素何かの拍子に残念なことをしたと思ふことは無いかネ。」

A「チットも無いネ。数学ナンテ、小学校でやった加減乗除さへ知つて居れば充分だよ。今考へて見ると何の為にアンナもので中学生を苦しめるのか、僕にはチットモ解らんよ。何しろアンナ能率の上がらぬものは、またと世界にあるまいよ。」

 

 

 

  冒頭の文は1924年大正時代に発行された小倉金之助の「数学教育の根本問題」という本の中の一文です。

大学院の授業の中で紹介されたので読んでみました。

 

この人です。

img_1_06_l  

 

まず冒頭の文ですが、これって今の日本の教育現場でも同じようなことが語られている気がしませんか?

 

数学はその実用性が日常生活の中で見えてこないのは確かですね。  

 

「数学とは入試を突破する武器でしかない」そんな認識の生徒は多いのではないだろうか?  

 

教育研究科数学専攻に籍を置いている私にとって「数学を勉強する意味」について考えることは使命であり、自分なりの論理的な答えを持っておかなければなりません。

 

そんな思いでこの本を読んでみました。

 

数学と数学教育の大きな違い

現今の我が数学教育は、論理の厳格を以て誇りとして居る。けれども一度び論理数学の立場から之を考察するとき、吾々はその論的欠陥の多大なるに驚かざるを得ないのである。(中略)中等数学の中には、数多の重大なる論理的欠陥がある。而も論理的に之を救ふの道は所謂初等数学の範囲内に求め得られないのである。

初めに断っておきますが大正時代の本ということでめちゃくちゃ読みづらかったです(笑)。

 

わからない漢字も多かったですし、文章自体めちゃくちゃ難しかったので現代文のセンター試験を解いているみたいに線を引きながら読みました。

今回の記事ではなるべくわかりやすく「内容」と「私の考え」を伝えていきます。

 

まずこの1文が書かれる前の章でひたすら「数学とはなんぞや?」という難しい話がされていました。

 

そういう話を踏まえたあとに今の数学教育を見てみると論理的欠陥がとても多いというのがこの文の主張です。  

 

例を挙げて考えてみましょう。

小学校では円のことを「丸いものを円って言うんだよ!」っていう教え方をする場面があります。

しかしこれは明らかに論理的に破綻していますよね。

丸いと感じたら全部円なのかという話です。

「丸いものは円」という考え方だと私がフリーハンドで書いた丸も円ということになります。  

 

しかし円の数学的な定義は1点からの距離が等しい点の集まり(1点からの距離が変わらないように動いてできた線)」です。  

このように論理的欠陥は現在の数学教育には多々見られています。  

 

しかしここで言いたいことは「論理的欠陥があるから今の数学教育はダメだ!」っていう単純な話ではないんです。

 

この本でもこんな1文があります。  

中等学校数学を厳格化することは、中等教育の精神を滅ぼすものである。

  ここでは先ほどの小学校の円の定義の例で考えていきます。

論理的欠落があるからといって小学生にいきなり円の定義を教えても理解できないでしょう。

しかも円の定義も数学的にもっと厳格化するならばユークリッド幾何学について触れなければなりません。

 

ここまでくると、もうほとんどの人がお手上げ状態ではないでしょうか?(笑)  

数学的論理の欠陥をなくすために小学生にユークリッド幾何学を教えたほうがいいのでしょうか?  

 

そんな数学的に厳格化された話が教育現場においてふさわしいものではないということは明白です。  

 

これが数学と数学教育の大きな違いであり教師はその違いをわかった上で算数・数学を教えていかなければならないでしょう。  

 

「数学とはこういうものである。しかし数学教育とはこうあるべきだ!」そういう考えをもつ教師とそうでない教師では授業に大きな差が出ることは間違いないでしょう。

 

教育の根本にあるものは社会である

教育とは社会状態と離れて進むことは出来ない。時代を背景としない教育は成立しないのである。

  社会が変われば求められる能力が変わります。

それに応じて学校も「今の社会が求める力を養う場」に変わらなければならなりません。

 

特に今の社会は激動の時代といっていいでしょう。

パソコンの出現によって今まで人間が行っていたほとんどのことがパソコンによって自動化できるようになりました。  

そうした社会の変化に応じて教育も変わらなければいけません。

数学教育ももちろん例外ではありません。  

f:id:keita-agu-ynu:20151203183708j:plain

しかし現状はどうでしょう?

(数学の)最も確からしく考へられて居た効能は「数学教育は推理の能力を練る」というふ点にあった。換言すれば数学教育は形式的陶冶をもってその大なるを目的としていたのである。ここに形式的陶冶とは数学教材の力を借りて精神能力そのものを陶冶せんとすることである。(中略)(この形式的陶冶節は)ただ能力の陶冶のみを前提とするときは学習の内容たる教材は何でもよろしいのである。

  なるほど。

これはほとんどの人が教師から聞かされた経験があることでしょう。

 

ほとんどの教師は生徒から「算数・数学って何のために勉強するの?」という問いに対して「数学っていうのはね、考える力を身につけるためにあるんだよ。」といようにテンプレートで解答しているのではないだろうか?  

 

そのことについて、ここでは「形式的陶冶」と呼んでいるみたいです。

 

大正時代も今と変わらず全く同じことが言われていたんですね。      

しかしこの本ではこの形式的陶冶の考え方の乱暴さについて指摘されてしまいます(笑)  

ただ数学など云ふ特殊的なもので、一般に推理力を養はんとするなどは宜しくないと主張するのである。(中略)人間社会の生活に於いて、最も多く起こりやすいものを教材とせよ。

 

つまり「数学=推理力を養う」というのはおかしいよっていう話です。

数学教育が考える力を身に付けるために存在していることは間違いない。

 

しかし、それが「教育」であるためには、数ある数学の中から社会に即した教材を熟考する必要があるということです。  

 

これってほとんどの教師が勘違いしていますよね。

ただ数学を学べば考える力が身に付くと思っている教師がほとんどです。  

 

そんな都合の良いものではないんですね。  

 

数学教師は現在の社会を見つめて、その上で数学という学問の中から「どんな題材を取り上げるのか」、「授業のどこに重点を置くべきなのか」を考える必要があります。  

 

小倉金之助は泣いている

ここで確認したいことは小倉金之助の「数学教育の根本問題」という本は大正時代に書かれている本ということです。

しかしここに書かれていることは現在の数学教育で課題となっている事柄ばかりです。  

つまり現在の数学教育は大正時代からの問題を未だに引きずっているということです。 

そう思うと悲しくなってきました。

小倉金之助も今の日本の数学教育の現状を見て天国で泣いていることでしょう。  

 

センター試験の廃止、教育課程の改訂などシステムやカリキュラム上では現代社会に即した力を養う方向へと変わっていると思います。  

 

しかし肝心の「教師の数学教育というものへの意識」、「生徒の数学という科目のイメージ」は大正時代からほとんど変わっていません。

 

この根本的な問題が改善されない限り教育数学の更なる発展は望めないのではないでしょうか?  

教育って本当に難しいですね。

 

私は数学で身につく力というものをもう少し細かく分析して考えてみたことがあります。

www.proof0309.com 

ただこの勉強すれば力が身につくっていう発想もちょっとずれてるんですよね。

 

あなたは数学教育をどうとらえていますか?

数学を学ぶ意味って何だと思いますか?